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マインドフルネス実況中継 [健康]

不調と病は根源から改善できる?根源治療の道しるべの続きです。


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治療の一環で瞑想を取り入れようとしている方は、瞑想が痛みと一体どう関係するのか思われるかもしれません。

ということで、どこを切り取っても、瞑想ですよ。


まずは、人と話す必要のない環境と時間を確保します。お昼休憩の公園のベンチ。移動中に止めた車の中。子どもがお昼寝した後、学校へ行った後、、、瞑想の利点は、場所を選ばず、ツールが必要なく、一人でできるところです。最低限、自分と周りにいる人(看護や育児などの環境)にあらゆる面で危険がない環境さえ確保できれば、はじめられます。最初から一定の時刻に一定の時間をとる必要はありません。時間のあるときに、「5分だけ、座ろう」、「ちょっと、ひと息」からはじめます。


無理のない姿勢で座り、丁寧にまぶたを閉じるところからです。もしも瞑想がなにか怖いものと感じているなら、呼吸をするとよいでしょう。脳をはじめ、体中の全細胞に必要な酸素を送ることでリラックスし、痛みが軽減することに役立ちます。呼吸に集中しているうちは、できるだけ何も考えないようにします。思考に意識がいきすぎてしまうのなら、呼吸をカウントします。呼吸をカウントするのは、もっとも簡単な瞑想テクニックのひとつです。

ひと呼吸、続けます。数分、続けます。できる日やできない期間があって当然です。「今は瞑想したくない」という気持ちを眺めて座るのも瞑想です。「めっちゃイラつくわー」という感情と一緒に座るのも瞑想です。5分が10分、10分が20分、などというように時間が増していくことがあると思います。よい瞑想がしたいと期待して、「ソワソワしている」感覚を知るのも瞑想です。「すごい、今日はなんの抵抗感もなくラクにできた」という安堵感を、イライラ感をみるのと同じように眺めた翌日に、5分しかできなくて落胆するのを眺めるのも瞑想です。例えば30分というように、ある程度の時間ができる日が増えてきたら、やわらかい音を出すタイマーを使って、「30分は瞑想しよう」、と目標を持ってみるのもよいでしょう。はじめたばかりの頃は細かいことを心配する必要はありません。ルールは作らず、やってみようという意志がなにより大切です。


焦ることはありません。瞑想ができる人は、最初から継続する力や集中力や辛抱が強いのではなく、瞑想することで、それらを鍛えていったのです。これらの能力は、質の良い生活を送るうえで役立つものです。


ゆっくりとした呼吸や、すこし立ち止まる時間が、生活の一部として定着しはじめます。


さあ、いよいよ身体の痛みから解放され、病気ともさようならだ!!と、なればよいのですが...。瞑想を続けることは、痛みをなくすことに直結するのかというと、つながってはいますが直結してはないのです。瞑想することで、痛みがなくなるのではなく、苦しみがなくなるのです。わかりにくい一文かもしれませんが、瞑想をすることによって養われる能力(マインドフルネス)が、痛みが苦しみであると即座に結びつけるマインドに「待った」をかけることで、痛みと苦しみをわけて捉えられるようになるのです。痛みをじっくりと見て、バラして、正体を明かしていきます。日本人には説明不要のこれですよ、



痛みと苦しみの関係を実況中継しましょう。






        い               

              み      


       た      








「痛み」を、嫌がりもせず、逃げもせず、単に在るがままで観ていると、不思議なことに、苦しいと思っていた感覚が、単なる「感覚」でしかないことを感じます。足のしびれ、腰の痛み、肩の重み。こういったものを、ただ感じて、感じていることを眺めていると、痛いと思っていたものは実は不思議なセンセーションいがいの何ものでもないと気づきます。これが、痛みの正体。「あ、これが痛みの正体なんですね」と気づいた私に気づく。これを「痛み」というカテゴリーにいれて、さくっと片づけていたのです。「そうか、これを痛みというカテゴリーにいれて、さくっと片づけていたんだ」と、気づいたことに、気づく。この状態を眺めながら、今、苦しいかな?苦しいという感覚、あるかなどうかを自分に確かめてみる、「今、苦しいかな?」って。するとまた不思議なことですが、まるで得体の知れない「苦しみ」に、さっき感じた痛い部分を、プラグインしようとしているように感じられます。「あ、痛みに、苦しみが、プラグインしようとしている」。プラグインしていない状態だと、ただのセンセーションだけが、残っています。身体のなかにある思考を使って、己を導いていくことで、胎内の宇宙に漂うような、思考が身体の外から己を眺めているような、不思議な観点を経験します。


すべてのものの合間に、間がはいっていくような感じ。これが、在るがままを観る流れです。ヴィッパーサナと呼ばれる独特の瞑想法。


瞑想を終えるときは、ゆっくりと体の部分に意識を戻します。指や頭を揺らしたりして、ゆっくりとこの現実世界に意識を戻していきます。とてもピュアで真っ白になった心ですから、すぐに携帯電話を持ったり、ニュースやバラエティ番組をみることは控え、できれば空や木々を眺めたり、でなければお茶をゆっくりと飲んだりしながら、じわじわと日常に戻すことが大切です。



瞑想の効果をまとめますと、瞑想をすることで痛みがなくなるのではありません。瞑想によるマインドフルネスの技術が、長く慣れ続けていたオートプラグインモードを次第にプラグインしない状態に移していきます。その過程は、無理にオフへと切り替えるものではなく、どちらかというと「苦しみ」というものの正体をひたすら明かしていく作業を続けることによって、マインドと身体に徐々に確実に体得させていくような感じです。



順番におこるものではないですが、瞑想を続けていくうちに起こってくるのが、一極に集中するサマタ瞑想です。サマタ瞑想は集中力を養うものですので、ひたすら集中します。私はですね、実はサマタ瞑想のことは(寺娘ですが)上座部仏教の山寺に住むまで知りませんでした。サマタ瞑想が、ヴィッパーサナと慈悲の瞑想と同じくらい大切なことも、知りませんでした。


でも実は、すでに実践していたのですね。オーストラリアに移住してすぐ、ちょうどその頃は、自分の内側にいる先生(Inner Teacher)に導いてもらっていたのですが、その先生がサマタ瞑想を教えてくれて、すでに数年実践していました。それは、あまりに酷い痛みが続いていた頃で、痛みに焦点をしっかりあわせて集中して座っていた時期です。痛みに集中、というよりは、精神統一。ものすごい強烈な念をもって座りました。痛くて涙が落ちながら座ったセッションも何度もありましたが、この一極集中の瞑想を続けていくうちに、すべての痛みが解けてサマーディ(三昧)に入っていく体験を数回しました。去年、上座部の山寺で、阿羅漢から初めてインタビューを受けた日に「これまでどのような瞑想をしてきたのか?」と訊かれ、手短に説明した時に、それはいい経験だったといわれました。修行を続けるうち、阿羅漢がサマタ瞑想を指していたことを悟ったのです。



ヴィッパーサナ瞑想とサマタ瞑想(あわせて止観の瞑想)と、タイの上座部仏教の森林派の山寺で修行し、仏教観が根底から完全にひっくり返される劇的な体験をしたことについては、また別記事でお話します[手(パー)]




あなたの内なる世界へ、いらっしゃ~い
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まだこの先もございますのよ...




身体の痛み、心の痛み、どのような痛みを今生で引き受けたことになったとしてもそれは、バチやなにか制裁を受けたものではありません。何度も何度も言いますが、自分を責める必要はまったくありません!両親や学校や上司やあの事件やあの事故があなたを苦しめるためだけにおこったのではありません。今生で起こるすべてのことには因果関係があり、己のカルマにより発生したもので、すべては魂の成長のためなのです。「え、まさかこれだけは私は絶対に原因をつくらない!」というようなことこそ、残念ながら聖なる意味があって起こっているのです。カルマは都合のよいものではないのです。それがなかったら、今のあなたすら存在しないし、家族もないし、この環境も、この人生すらない。
カルマに、、合掌っっ




その背景に流れているのは、輪廻転生です。世界各地にある様々な信仰体系で根底にあるコンセプトですが(聖書からは削除)、それによるとひとつの人生の舞台・構成は、己がつくってきたカルマや功徳によるものだといわれます。カルマは恨んだりするものでなく、功徳は計算するものではありませんが、この人生の背後には、探っても探り切れることはない果てしないストーリーが隠れていることを知って、それらの出どころを付きあてる旅も同じように果てしないことを知るのも知恵です。もちろん、そうなってしまうなら、そうなってしまうというカルマなので、どうぞ導かれてください。瞑想が深まっていけば見えてくるものは見えてきますし、見えたとしても囚われの心を破棄することが勧められます。それよりも、今生の今ここで出来ることは、もうこれ以上怒らず、妬まず、悲嘆にくれず、嘘をついたり傷つけたりする行動を見直していくことです。最悪な状況になろうとも、素直になることを思い出し、できるだけ善い見識をもって行動していこうとする意志です。


永遠に続いてきた魂の輪廻転生。苦しみのサイクルから脱するタイミングがいつになるかは、誰にもわかりません。突然すべての苦しみから脱するというのは稀ではあれ実際にあることですが、じわじわと段階を経ていくことが多いでしょう。究極の解脱は「悟り」と呼ばれます。悟りは100万ボルトの雷が落ちてくるような感覚だと聞いたことがありますが、それがあった後もない人も、それは内面から徐々に段階をのぼるように悟っていくものです。


ですから、苦しい時期を超えて軽くなったあと、幸せを感じたり、人生の在り方がより鮮明に見えてきたり、そしてまた異なる種類の苦しみを経験するのは、自ずと然るべき流れです。肉体を持つ人間は生死を超えた輪(輪廻)の一部であり、すべてのものごとは移りゆくものであり、それが何であれ執着することが苦の根源であることがわかるようになることで、人間の苦しみサイクルから抜け出しはじめるのでしょう。




さいしょもさいごもなく、どこを切り取っても瞑想...

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