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タイでの出家のはなし(上座部仏教 雨安居修行) ブログトップ

《ガイアアシュラム》イサーンの国で、インターン? [タイでの出家のはなし(上座部仏教 雨安居修行)]

タイの東北部、ラオスとの国境をはさんですぐ南側。
この地域は、イサーン(またはイーサーン)地方と呼ばれています。タイ国内でも大きな都市といえる、ウドンタニ(ウドーンターニー)があり、ラオス国境最寄り、メコン川のほとりにあるちいさな町がノンカーイ(ノンカイ)。

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私にとって、タイは何度も訪れたこともある最愛の国(日本にいた頃はね!)
だけど、まさかタイの東北部を訪れることになるとは(思ってなかったね!)

ペルーでジャングルのメディスンと繋がる神聖体験一ヶ月このシリーズをへて、南オーストラリアにもどってきた。不思議そうで不思議そうでないマジックがこの手から出てきたあと(こんな感じで)、また東海岸へ行くという夢。いつもはキャンパーバンで行っていたけど、今回はお急ぎな感じで飛行機でコフスハーバーまでひとっとび。。。

長い話が、そこで、ノンカーイにあるマットミーというゲストハウス兼ヨガコミュニティを唐突に紹介され、インターンに受け入れが決まったことを受け、六月にタイへ[ぴかぴか(新しい)]


《ゴールドコーストから、バンコクまで。バンコクから、深夜特急でノンカーイまでのお話はこの記事をご覧ください》


早朝に到着したノンカーイの第一印象は、とてものどかな田園。ここに半年以上もいるなんとはツユともしらず、トゥクトゥクのおじさんにジェスチャー説明してたどりついたのが、マットミーゲストハウス。

タイの美しい原色のお花にあふれた大きなガーデンカフェは、メコン川沿いにある。大きなダイニングテーブルや、ハンモックや、木の下のちいさなカップルシートなど、環境となじんだ素敵なカフェで、何人かの人たちが朝食をしたり、おしゃべりをしたり、ジャーナルをつけていたりしているのをみて、ここがガイアアシュラムへの「扉」なんだと思うと嬉しくなった。

カフェのキッチンと併設されたレセプションに行くと、赤毛の白人男性がいた。
「こんにちは。」と英語で言う。彼の返事は、オーストラリア英語だった。
彼の雰囲気がとても気になった。レセプションにはいるけれど、「あなたは何をしている人?」と訊くと、「出家していた山寺から数週間前に俗世にもどってきたところ」。そして、「君はもうすぐ阿羅漢のいるあの山寺にいくだろう」と言った...


私を乗せた乗り合い車は、20分くらい走ってガイアアシュラムに着いた。


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(後日確認:オムのお父さん)

そこは緑がうっそうとしたジャングルにしか見えなかった。当時タイ北部のパーマカルチャープロジェクト(2017年現在)で有名な、三つのうちのひとつであるはずなのに、「?」。サラ(シャラ)と呼ばれる間がある(勉強やヨガができるところ)一階があって、その二階は、蚊帳つきでごろ寝できる壁のない建てもので、25以上の布団は敷ける。その少し先には、アウトドアキッチン。建て物はそれだけしか見えない。周りはタイ特有の原色に彩られた緑濃いジャングル。(後に、オムとトムの二階建ての家、泳げるため池、建ちかけのルキナの家を次々と発見。広大な敷地!)


そこに、中国人の女性がいた。

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その向こうに見えたのは、水牛。

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インターンの四名は、顔を見合わせる・・・


ベトナムからはMinh(ミン)。母親。大量消費型社会から共有型ギフト社会へ移行するひとたちの社会ネットワーク作りをしている。インターンの中では最年少。笑顔でみんなをつなげる存在。使用言語は英語、ベトナム語。

フィリピンからはLuz(ルース)。旅人。体力も知力もあってなんでもできる姐さん。とにかくまっすぐに情熱的。ほんとになんでもできて、何ができないかが見つけられないくらい。最年長。英語、フィリピン語、スペイン語。

ペルーからはMonica(モニカ)。ヨギー。主に子どもたちの精神面でのサポートにヨガと遊びを取り入れている。リーダー的存在。フランス語、スペイン語、英語。

オーストラリアからは日本人の私。気功と瞑想とカウンセリング担当で参加。日本語、英語と、中国語とスペイン語ちょっとずつ。


みんな、自分の得意とすることを提示し、持ち寄って、個のインターンのメニューを企画、実施して、ガイアアシュラムと成長していくという三ヶ月の共同生活であった。のだが?


すでにガイアアシュラムにいたもう一人の住人(学ぶ人)は、最年少のYang(ヤンヤン)。
中国福建省のお茶の会社で働いていたが、いろんなことに目覚めて自然農法を学ぶために、一人でガイアアシュラムに住んでいた。英語を学びたてで、ジャングルに住むのもはじめてで、なんでも挑戦する、いとおしい存在。


みんなが面接した、ガイアアシュラムのオーナー夫婦の、オランダ人トムとタイ人オムスニサ(オム)はいなかった。


今度は5人で顔を見合わせる(笑)


だれか英語で説明して?(爆)




事情を知っていたのはヤンヤン。彼らはトムの故郷であるオランダへ帰省中だが、もうすぐ帰ってくると。彼女の説明によると、タイが雨季に入ると彼らはオランダに帰るらしく、ガイアは数ヶ月間留守にするだけでジャングルになってしまうという。うなずけますが。

毎日37度超え、湿度100パーセント。
雨が降ってなければ、汗がふってくる。


確か一週間くらいで二人が帰ってきたと思う。
何が始まるかと思えば、インターンではなかった(ご想像通り)。

ジャングルの開墾、コンポストベイつくり、フードフォレスト作り、キッチンの改造、シャラの大掃除、青空シャワー作りに、コンポストトイレ作り、、、その仕事が大胆に与えられたのでした。二ヵ月後に開催される、『ディープエコロジー』と『パーマカルチャーコース』のために、世界各国から訪れる約30名の受け入れを整える必要があり、その態勢を万全にするという。

で、私たち四人の「インターンの目的」は、このワークグループのリーダー(ファシリテーター)として1ヶ月の大所帯を切り盛りするのが彼らが考えていたこと。らしい。


最初の二週間。
私たち4人は何が起こっているのかをわかるために、とにかく目の前に対応していくと、あれよという間にジャングルワーカーのできあがり。必要経費を払った上で困惑しながら労働提供をせざるを得ない状況は、まさに政府の言葉を信じて突然船で海外へ渡った第一世代移民のような状況。私たちは毎日このことについてどうすべきか正直に、オープンに話した。私たちの誰もが学生や新卒でなく、いろんな仕事をしてきて、こういう経験(いやもっとブラックな経験だってあるさ)はあるが無責任では投げることはできない。しかし常識的に何かが合致していないことは一目瞭然で。。。

与えられた経験を生かしたいという気持ちがありつつ、それでも倫理的に筋が通っていないということで、結局、私たちは最初の「休日」に、ガイアアシュラムを出てマットミーゲストハウスにもどって息抜き。みんな、ほんとにぜーぜーしてた(笑)。シャワーでメルトダウン、マンゴラッシーで昇天(笑)。

マットミーゲストハウスのガーデンカフェで、すごくいい経験をもらっていることをみんなで確認した。赤毛のジェームズも、マットミーのオーナーのジュリアンも参加して、みんなで話した。隠し事なんてひとつもなかった。大きなプロジェクトがタイの東北部でキックオフしようとしていた。ガイアアシュラムのことはみんな知ってた。誰も敷かれたレールを歩きにきたわけじゃない。ジャングルを覆っていたルキナの木々は伐られたが、これは雨季に育つネイティブで、すべてが木材となるために育ちオムの父親の手によって家となっていった。私たちは土地を耕し、コンポストをいれ、果樹と野菜を植えてまくった。いくつものパーマカルチャーガーデンと、フードフォレストを整えた。トイレも建てはじめた。みんなでご飯をつくって、食べて、シャワーは池で、その後ゴロ寝した。


私たちが到着した前もあとも、ドイツ、ロシア、イギリス、トルコなどからガイアアシュラムのプロジェクトを聞いた人たちが個人で訪れていたけ。だけど、あまりの原生ぶりに、誰も長期で留まることなく去っていった。その彼らの一人ひとりの持ってきた力が、青空シャワーを完成させ、コンポストトイレエリアを整え、キッチンがキッチンとして機能していく様子を見て、有機的としか言いようのないコミュニティの成り立ちかたをみせてもらえたような気がした。濃すぎる三週間でいろんなことを学んだことは間違いない。


でも、もう一日たりともあの環境では働きたくないと感じていた。
「搾取」という共有感情が芽生えそうな直前にいたことも確かで。


ガイアアシュラムにもどってすぐミーティングを開いた。
オムは、私たちの想いを聴き、こちらの意識と姿勢と提供する労働力に対しての、受け入れ態勢と対応のなさにその場で即謝罪し、インターンを解散させた。早かった。インターンとして私たちが払った必要経費は返金することを約束。私たちの労働に対して慰謝料的なものを支払う話も出たけれど、私たち全員合意で拒否。あまりの対応の早さをみて、誰でも同じかな、ガイア側もいろいろあっていろいろと認識していたけれど、行動になっていなかったのかな、と察した。どの立場が善い悪いなく、正直な環境を整えて話すことが最善策だということを確かめられた。オムとトムの家の二階のバルコニーで、そよぐ熱波を頬に受けながら、ここでも、四人四風の(リーダー、バランス役、ムードメーカー、論理的思考)役割エネルギーがばっちりだったのを今も覚えてる・・・。

ここで、インターンはあっという間に解消!で、
もう、ガイアアシュラムを離れて結構です、と。

ちゃんちゃん!


じゃねーよーで(笑)



人生の喜びある経験は、どこにあるかわかりません[黒ハート]
モニカ、ルース、ミン、ヤンヤンと私の五人は、ここからオムとガイアアシュラムと真新しい関係性を築くことになるのです。

なにせ、ひと月後に30名超が都市部からこのジャングルへやってくる事実は変わらない。
もう秒読み状態なのに、コンポストトイレも青空シャワーも滞在場所も確保できていない。

一方で私たちは、すでにタイでの滞在時間を確保してあり(インターンのため)、帰国や出国の必要がないところにいたので、オムとガイアアシュラムをバックアップするために残ることにした。いや、アドベンチャーに参加するというか?

オムのお父さんはルキナの木でどんどん住居をつくっていき、キッチンヘルプとして地元の女性が二人雇われ、そして私たちはできることをやろうと、できる範囲でしたいことを有機的に行っていった。私は、離れのルキナの家をモニカとレンタルし、そこでリトリートをしながら瞑想と精神的サポートとカウンセリングをすることを提案した。みんな、個人的に新しいアイデアを提案して、残ることにした。確か、オムがガイアアシュラムの受け入れをオープンにしたので、男性が何人も到着し、とんとんとんとシャワーも家も完成していった。そこに、トルコ人のぺテックが登場。タイではたくさんのプロジェクトを行ってきた科学者。ワークショップの裏方はこれでそろった!

これは、まるで意識した意識がマグネットのように寄りあつまり、技術や知識や経験などが組み合わさってチームとなり、それが(全体として)あるがままに調和し、つまりそのままで完成されている、ということに気づかされる経験だった。

ご縁とは、創造主の采配

創造主は意識の主。手放しで、サレンダー[手(パー)]



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オムは、私たちの意見を前向きに取り入れ、ワークショップという大きな目的実践のために備えた。オランダ帰りのオムとトム二人だけでは、しかも第一子を妊娠していたオムには、大きすぎる仕事だったようなのは明らかで…。いろんな立場と意識の人間が、暮らしをつくっていくこと(人間育成、食物確保、ハコ作り、調理、トイレ、コンポスト、リサイクル、掃除…、そして朝ヨガから日々の勉強会と非暴力コミュニケーション練習会から夜の瞑想まで)を、みんなで実行企画して経験をさせてもらい、これこそが人間がつくるロー(Raw)な「プロジェクト」なのかと感じました。目的があったからこそできた。

もぅ、お掃除時間でさえもこんな感じ(楽しすぎてエクスタティック)。
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そんなかんな、ガイアアシュラムは一ヶ月の滞在型ワークショップを迎え、一人の女性が途中で去ることを決断したことも含め、トラブルなく成功に収まりました。

参加者の中には、私たち4名が長くチームで働いているか、ガイアから雇われているスタッフだろうと思っていた人がいたようで、最終日にただのボランティアだったことを告げると驚いている人が多かったことがなんだか新鮮だった-特にヤンヤンはすべての勉強会に参加しながら企画側(裏方)も勉強していたので、一体何者なのって感じで!

都市部から暮らしのシフトをしようと決めた人たちが、そうと決めたものの、オフグリッドで住むとはどういうことか、買い物したりケータイで過ごす時間がないところで、どのように新しい生き方を、手と足と体と心をつかって、模索していくのか、こういうことを大人数の舞台でサポートできた経験に、心から本当にあり難く感じます。

私はタイに行く前、オーストラリアのオフグリッドの森でキャンパーバンに住み、ケータイもパソコンもなく、有機野菜を育てて、主に物々交換で生きていましたが、それは己の生き方、生き方をつくる価値観、価値観を形成する信念体系を見つめる作業、心を癒す作業、ご先祖様とのつながりを思い出す作業、自然の一部であることを感じなおす作業、旧い自分を脱ぎ去る作業などと、自分ひとり(のことだと信じていたこと)に集中(せざるを得ず)して、個レベルで行ってい(るだけと思ってい)ました。しかしこのガイアアシュラムでの経験は、私という個人の健全さにもう一度目覚めて生きなおすことは、ガイアを含めて自分の人生の目的にも沿い、コミュニティや地球や人類全体の健全な成長とも沿うものであり、私にも存在位置があったということを実感で教えてくれたようです。オムとトムも含めて、インターンのみんなそれぞれが貴重な個人の体験を持ちよって、この全体の経験ができたのだなと思うと、人生の奇跡的で有機的なご縁にさらに深い神秘を感じます。


ワークショップが開催されている間に、こうしてつかの間の休息…

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さて、このワークショップが終わったとき、後から参加した裏方ぺテックと、ヨーロッパからの4名(2カップル)とタイ人女性はガイアアシュラムに残り、さらにガイアアシュラムの基盤づくりをすすめました。このうちドイツ人の友人とは今も繋がっています。手作り商品のマーケットへの出品やブランディングがはじまり、マッドブリックの建物(『マリアのフェアリーハウス』)が建ち、定期的なパーマカルチャーワークショップが開催されたりと、今のガイアアシュラムの礎を固めていった様子を、ニュースレターが教えてくれています。


こうして、人生に一度だけの貴重な経験をさせてもらった私たちは、みんな笑顔でガイアアシュラムを去りました。


今では、ヤンヤンが看板をつくっているとき、いつもいろんな話をしていたことが思い出です。

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その後・・・
ミンは、ベトナムに帰って、ホーチミン近くでプロジェクトを開始。
モニカは、タイ国内の次のプロジェクトで子どもたちのサポートに。
ルースは、タイ国内を旅行しつづけ、後に私の瞑想の滞在先に合流。
ヤンヤンは、数年後に私の住むオーストラリアに3ヶ月の間滞在し、
パーマカルチャープロジェクトへ滞在して学び、私が住んでいた南オーストラリアのエコビレッジでウーフィンをした後、中国の田舎へ移住し、森で自給自足をしているとのこと。
私は、マットミーゲストハウスに一旦もどり、不思議なご縁でそれからもタイに滞在しました。


私の人生のマーカーポイントとなった忘れられないガイアアシュラム。オムやみんなとの出会い。
これからも、ガイアアシュラムが滞在者とともにすばらしい発展と成長を遂げていきますように!


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本日も、語尾に統一性のない私のベストな日本語にお付き合いいただき、まことにありがとう御座いますた!



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タイでの出家のはなし(3)ペルーの魔女、そしてガイア・アシュラムへ [タイでの出家のはなし(上座部仏教 雨安居修行)]

タイトルはタイなのに、いきなりペルーからのスタート[黒ハート]

(タイでの出家につながるはなしの前振りがながすぎだってはなし)

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二千十ウン年の10月、アヤワスカの精霊女神にであってしまってから、私の摩訶不思議体験は不思議なくさらに深まりまりました。

ペルーを去る前、聖なる谷のシャーマンと私と旦那は、バスとタクシーのりかえてクスコから数時間離れた名もなき村にいました。そこは、きっとそう遠くない昔にネイティブの人たちが暮らしていたような雰囲気でした。ほぼ廃墟となっていた姿が、なにか大きなことが起こったことを示唆していました。訪れる人などいないのでしょう。タクシーを降りた後、シャーマンは運転手にしばらく待つように伝え、数人の子どもと数匹の子ネコが通りを横切っていくのをみながら、ひとつの店(よろずや)を見つけました。シャーマンは、お菓子や、ろうそくや、ちいさなものを両手に収まるほど買い、家の主のような人は大きな紙に包んで渡してくれました。

そこからしばらく歩くと、コンクリートの廃墟の下に階段があって、そこを下りていくと小さなドアが。

ノックをし重いドアをあけると、そこ座っていたのは、「魔女」でした。
ほんものの魔女に会ったのは初めてのこと。

シャーマンは、アヤワスカの儀式で受け取ったお告げにしたがってやってきたといいました。魔女は年齢不詳で、そこにいて、いないような、いるけれどすぐ姿を消えてしまいそうで、それは身を隠すためなのか、きっといつも異なる場所にいるような雰囲気でした。私たちは挨拶し、テーブルを囲んで座り、シャーマンが買った紙袋を差し出すと、魔女は包み紙を大きくひろげ、その上に神なる(コカの)葉とコーンの種、そしてテーブルの下からあらゆる「神器」を加えて、ぼそぼそと作業をはじめました。通訳はシャーマンです。私も旦那もスペイン語がわかるのですが、それはスペイン語と何か他のことばのミックスに聞こえました。

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【聖なる葉はマーケットにいけば手に入るけど、クランデーロが選ぶこれは上モノ・・・】


彼女は、世の摩訶不思議を読みはじめました。
そして、私にはお役目があると告げたのです。


元旦那も私も、シャーマン自身も、それぞれが驚くべきタイムラインの可能性を示唆され(それは、7年後の今三人ともにあてはまっています)帰路はほぼ無言。廃墟を去ってタクシーにもどり、そしてバスに乗りかえ、クスコにもどりました。そこで、シャーマンは、私がリマに飛ぶ前にもういちど聖なる谷(Sacred Vally)の彼の家、パチャママ・ワシ(母なる地球の家)に行かなければならないから、早朝に出発するからと言い、クスコの家に帰っていきました。

私とシャーマンは、翌早朝、アヤワスカ神殿のある聖なる谷(彼の家)に向かう車に乗っていました。

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【パチャママ・ワシの神殿-シャーマンのお父様(同じくシャーマンが)建てられた家族の家であり、使用人たちの家もある、壮大なテンプル】

数週間ともに過ごして親しくなった、畑で働くお手伝いさん一家と、家で働く女性二人が、私がもどってきたことを喜んで迎えてくれました。もう会うことはないだろうと思って、出発前にスペイン語の手紙とともに、私が持っていた冬物の暖かい小物をサプライズで残しておいたので、そのことをとても喜んでくれているようでした。

間もなく私は聖なる水場にいくように促されました。それはアヤワスカやパワープラントの儀式ではなく、山からおりてくる聖水をつかっての儀式。そこはとても静かで女性的でやわらかく、たくさんの花びらやキャンドルが供えられていました。儀式の準備は終わっており、私は瞑想をしたあとにそこに一人で入るように促され、シャーマンは、「これは聖なる女性性にまつわる儀式で、何が何かは導かれるから」と言って私を残して去っていきました。

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【アプ(目のある山)から流れてくる聖水が、パチャママワシに流れ込みます】

そこで私と一緒に過ごしたのは、石でした。この石は、文字通りただの石ではなく*パワーストーンと呼ばれる石。私とともに儀式を行った石は、『聖なる(目覚めた)女性性』を象徴する石で、その石の片われである『聖なる(目覚めた)男性性』を象徴する石は聖なる谷に残り、この片方をオーストラリアのとある場所に配置し、パワーストーンのスピリットを通して大いなる意志のなすべきことがなされるようにアシストする、というミッションを与えられていたようなのです。パワーストーンのツインレイ。私の存在を清め、聖なる女性性を思い出す儀式もそのためだったのです。

シャーマンは、あの魔女はホワイトシャーマンが信頼する魔女なのだと言っていました。メディスンによって開かれる領域で受け取られる量子的メッセージが、数珠繋ぎになって三次元で姿をつくりだそうとしていることに、私もうすうすと気づき始めていました。シャーマニズムでいう三っつの世界の領域が同時に開くとき、そしてドリームタイムへのトンネルが確立されるとき、私たちは個を超越して、スピリット界と共働できるのだと。これは、この文明がはじまった初期に暮らしたていた部族が、当たり前のように使っていた上層界とつながるツールであり、地球次元の大調和を保って自然界(多次元領域界)と共存して生きる方法でもあり、そして、今も脈々と続いている…

お役目をいただいたことを在り難いとだけ感じていました。私はただチューンインすることだけに徹するだけでいい。その方法は、私オリジナルの方法を見つけて日々磨いていくしかない。だけど、「心をひらいて明け渡す(Surrender)ことに集中してさえすれば導かれるだろう」という安心感は遥かに大きくありました。

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ウルルの大地に戻ってからの日常生活では、不思議体験がふつうに続きました。たとえばものすごい火事場のくそ(言葉ごめんなさい)が出てきて物を破壊したり、壊れた電化製品 に触ったとたん故障が直ったり、ありえないところから突然火を発火させてしまうというようなものでした。メッセージをより深く聴くためにパワーストーンとの会話をつづけ、そのパワーストーンが配置されるべき場所が水の要素の強い場所だということを受け取りました。

そして、とある(南半球)真夏の、とある地点で、私はパワーストーンを片手にひとりで儀式を行いました。後でわかったことは、その場所はレイラインでいうところの富士山、バリのアグン山、フィリピンのボホール、*ウルルとつながっている場所でした。


12月頃から、ドリームタイムがまた開きだしました。
夜の夢で、お告げが来るアレです、
   「タイへ」
と。

学生時代からタイは大好きな国のひとつですが、また突拍子もないお告げがきちゃったと思いました。それから間もなく、どういう経緯か詳しく覚えていないのですが、タイにあるガイア・アシュラムで世界から4名のインターンの募集しているという情報が耳に届きました。へー、です。(点)と(点)の接点がまだ見えなく、そのときは流しました。

年が明けて1月。以前住んでいた東海岸にあるオフグリッドの森に飛びました。当時の旦那はその後、キャンパーバンで到着しました。フットワーク軽いように見えますが、すべて神、いや夢のお告げです[ダッシュ(走り出すさま)]

ある日、森のなかの村を散歩していたら、知り合いの画家のヴィレジャー(村民さん)とばったり遭遇。彼は、その日だけ村にもどってきただけで、またすぐ出て行くところだと言うのです。そして唐突に、タイのノンカーイにあるバックパッカー兼コミュニティのはなしをしはじめたのです。そこはヨガコミュニティと合体したバックパッカーであり、メコン川沿いにあると。。。そのはなしだけをして、彼は去っていきました。。。


翌月2月。またタイのガイアアシュラムでのティーチャー・インターンシップ話が届きました。今回は、募集要項など一式が書かれた情報サイトでした。これはシンクロニシティというしかない。私たちの「自宅」(キャンパーバン)はその時ツイード・シャイアーにあるコミュニティに移動していましたが、そう遠くはない所に図書館があるし、やろうと思えばできないことはない。大いなる流れに沿って、インターンに応募することにしました。

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【「自宅」[どんっ(衝撃)]


世界中から選抜4人っていうのもありえなく面白い(宇宙のゲーム)設定ですが、どいうやら何もないところから、自分でインターンシップの骨組みと内容を決め、セルフエデュケートできるプランをデザインして提出し、そこにミッションステイトメントのようなものを加えることが最初の選考だったように記憶しています。こういうときにものすごいがんばっちゃうもともとスポ根なので(汗)、やってみました。覚えておられるかわかりませんが、2013年から2018年まで、意図的にケータイもパソコンも(クレジットカードも)所有していなく、車の免許もなかったので、旦那さんに車で図書館に連れて行ってもらって、図書館パソコン使って缶詰で書類を作成し、

一通り書類一式を完成させて送ったら、

一時選考通ってしまいました。

二次の面接も、最終面接も、通ってしまいました。

晴れて選ばれたのは、フィリピン、ベトナム、ペルーそして日本人の四人の女性。そこにボランティアできていた愛しき中国出身の-今では心友の五人で、その際はアシュラムというよりはタイのジャングルに乗り込んだのでした(笑)

こういうのって、「私がした」のではなく、もう「運命に描かれている」といった方がよさそうですよ。




ということで、私は、旦那さんに(何度目かの別れを告げ←ほんとに自由人でゴメンナサイ)、ガイア・アシュラムを目指して、バンコクからノンカーイへの心の旅路は(いったりもどったりで)こちらから。



《予告編》

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【ガイアアシュラムで数ヶ月過ごしたコアメンバーと、タイ反対側北部でパーマカルチャー神的存在のベンと。おかしくサバイバルなジャングル開拓日記は、次の記事にて】





参照)
*パワーストーン

ファーストネイションの部族たちからこのパワーストーンの威力については聞いていて、この数年後にとても重要なメッセージをもつ多くの石たちが同席する場で火の儀式をしたのですが。。。同じスペースに存在したときの経験をここで短く説明するなれば、それはエメラルドタブレットのようなイメージで(私が知っていることは何もなく、ただなにかとても重要で且つシンプルな宇宙のアルケミーがこめられている、という程度の理解)、宇宙太古の叡智を地球次元への浸透させるような、ある意味ポータルのようであり、ひとつひとつの石にスピリットが生きているエンティティであり、チャネリング可能なコミュニケーションストーンであるように感じました。私が、(天から)依頼を受けてパワーストーンを与えられない限り、触ったりコミュニケーションすることは「危険」だと直感で感じ、それらの目の前で自然と畏敬の念を感じました。その感覚はウルルを巡礼したとき、それが日暮れ後に発した波動とほぼ同じくしたものと感じられました。

ファーストネイション
こちらでも縄文ルネサンスのような動きがここ数年非常に強くあります。アボリジニという言葉自体の語源に疑問があり、私たちは土着の部族の方たちのことを、総称してファーストネイションと呼んでいます。


*ウルル
こちらも同じく、過去記事でも一度ご紹介しましたが、ファーストネイションを尊敬する人たちの間では、エアーズロックはほとんど(絶対というほど)使われず、ウルルと呼ばれています。
めっちゃ極端な例ですが、たとえば富士山が「はじめて」発見されたのが最近で、発見者はマイクさんなので、それにちなんで「マイク山」と命名しますといわれても、ずっと日本に住んでる日本人にとっては、富士山はフジサンで、「マイクサン」ではない。やがて、日本にやってきた人と移住したが多数を占め、みんなこれはマイク山だといって、教科書もツアーパンフレットや看板、そこらじゅうにマイク山と書いてある。マイク山5合目?マイク山後来光?富士山の精霊、浅間さま、木花咲弥姫命が泣く...。ありがたいことに富士山にはそれは起こりません。ファーストネイションにとって富士山的存在のウルルが、他の名前で呼ばれていることは、土着の精神が土足で踏みにじられることを象徴しているようです。



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タイでの出家のはなし(2):修行するって、どういうこと?ヴィッパーサナって、なに? [タイでの出家のはなし(上座部仏教 雨安居修行)]

お話はずっとさかのぼり、2007年は6月のことです、元ヤクザさんから、瞑想を教えてもらうことになりました。
今日は、私にとって今生最初のヴィッパーサナ瞑想の先生のお話を、ちょっと。



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この時期は、タイでの出家の話(1):ソウルメイトの超婚、の巻の続きとなります

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その時に働いていた新橋のある政府系組織の元同僚(今もずっと仲良しのお友だち)が、
「新宿歌舞伎町で瞑想を教えているてーらわーだの和尚さんがいるから行かない?
びっぱーさなを教えてくれるらしい」というのです。
はじめて聞いて、発音すらできませんでしたね[あせあせ(飛び散る汗)]
と、いうところから、今に続く私の本気・瞑想ジャーニーははじまりました。


そのころはまだ悪夢に悩まされていた頃。継母への憎しみ嫌悪感と、父ともう一生会えないことの悲しみ(そして、思考は現実化し、本当に会えませんでした)、人生の終わらない怒りをどうしようもできない時期だったので、初心者の私は特にこの件に関しまして(←今はなきこの仕事感覚)瞑想を行うことにしました。仕事帰りに、電車を乗り換えて歌舞伎町へ。雑居ビルの7階とかでしたか。ドアを開けると大きな和室が。そこにはオレンジ色の袈裟を着たお坊さんが座っていました。不思議な超異空間。

教えて頂いたことを家で毎日実践しましたが、始めた頃は、憎い相手をゆるす、自分に危害を加えた相手の幸せを祈ることが、本当に難しかったのを覚えています。悪夢の継母が殺人的に怖かったので、この人の幸せを祈ることと、悪夢が止まることの関係性など、ほんとにまったく理解できませんでした。

もう一人の元同僚(彼女も今も仲良くさせてもらっています)と週末も新宿に出かけては和尚の瞑想会に参加するなどして、瞑想のキホンのキホンを教えて頂きました。重複しますが、テーラワーダが上座部仏教だということも、ヴィッパーサナが『止観の瞑想』であることも、慈悲の瞑想も、もちろん日本仏教とのつながりも、つながる点や線など、まーーったくなく、すべてが真新しい概念と経験でした。


藤川和尚は私と同郷、京都出身。もともとは地上げ屋さんと呼ばれるヤクザさんです。
国内でかなりやり手にお仕事をされていましたが、ご縁でタイも地上げることになり、バンコクへ飛んだそうです。これはご本人から聞いたことですが、「俺様にできないことはない」超傲慢ぶりだったそうです(笑)。ある日タイ人の部下から、「そんな社長にもできないことありますぇ」といわれ、「そんなもんあるわけないわぃ」と豪語した後、なんやそれと聞き返すと、「タイのお坊さんとして出家すること」、だと。

それがちょうど雨安居(ウアンゴ)と呼ばれる、2500年前の仏陀時代から続く伝統的な雨季の厳しい三ヶ月(通常無言)の修行の直前で、「そんなんできるわぃ。」といってしまったが最後。本当に洋服を脱いで、袈裟に着替えて、出家しちゃっのだそうです。

洗ったこともないトイレ掃除からはじまり、決して怒ることのないお坊さんたちと過ごす三ヶ月間。これまでの悪行ぶりを本当に申し訳なく、なんてことをしてしまったんだとはじめて後悔し、ほかの比丘(びく)の本物の優しさに触れ、日々懺悔を繰り返し、心と体をすっかりきれいにすることに集中したそうです。情けなかったそうです。厳しい三ヶ月の修行を終えたときには、俗世に戻る選択はもうなかったそうです。そのまま、上座部仏教の比丘として得度された後、肉体が地球に還るまでずっと比丘の暮らしを通されました。

藤川チンナワンソ 清弘和尚の本は、記事下部にリンクをはっておきますね↓↓↓


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〈こちら、京都大原三千院のお地蔵さんどす〉


私はというと、日本のお寺で育ったのにどうして瞑想をしていないのだろう…とか、日本の仏教はどうしてタイとぜんぜん違うのだろう...とか、黄色い袈裟を着て托鉢している東南アジアの質素なお坊さんからすると、日本の坊主はよく言えば「社交的」で「世俗的」っていうか、拭えないお金のにおいと、払おうとしてもそもそもない純粋さ…。そんな疑問がふわふわとあっても、あんまり気にもならなかった東京派遣OLです。

そんな、まだ知らない多くの魂の疑問を意識の中で顕在化させてくれたのが、今思うと藤川和尚だったと思います。そういったあやふやな疑問が思考の中をゆるゆるする中で、「ゆるす」ことができるはずの「慈悲の瞑想」を信じてみて、自分のマインドをヒプノセラピーをしていたのだと思います。


さて、タイでお坊さんとして出家する、得度するということは(この二つは詳しく言うと異なることですが、それは後ほど)、すごく簡単に言うと、所持品、仕事、人生の何もかもを手放して修行山寺に入るということです。

すなわち、肉体と心とマインド(思考や感覚)のすべてを透明にする作業が主目的の生活に身をおき、
生きることのすべての部分を完全に意識して観察するということです。

と、いうことですが、意味がわかりますでしょうか?

修行山寺に入ったら静かで穏やかな暮らしでしょう、と言う意見と、マインドという逃げ場のないところに自分を追い込んでそんな激しいことをするなんて、という意見をよく聞きますが、どちらでもあり、どちらでもありません。

ある意味、どちらでもあり、どちらでもなく、激しくあり、激しくもなく、清らかであり清らでない、というような、私流に言葉にするならば、すべての二極を超越し、今に在ることを可能にするカモシレナイのが修行なのかというところです。

修行は、私たちの源でありエッセンスである死にも生まれもしない悠久ものに気づくため、溜め込みすぎたが不要となったモノを一切を下ろすことを手伝ってくれ、その作業を、毎時毎日明けても暮れても意識し続ける場ということです。一極集中をトレーニングする、精神統一を手に入れる、というとおわかりいただけますでしょうか?




え、わからなくなってきました?
もうちょっとだけお付き合いください



不要となったモノの一切、とは何か。
すべてです(笑)

もとい。代表的なものは執着、その中でもレッテル(肩書き)があります。
それはマスク(お面)のようなもの。「私」は、○○商事の役員です、や、私はその妻です、私はポルシェを所有しています、私は××家の娘です、私はヨガの先生です、など。人生の部分的なものを切り取って、その短期的な状態(お家柄や職業)を、名称(概念)であらわしたものです。

それはそれでよいのですが、仏教では、これらのレッテルやマスクを、まるで永久的な「私である」と信じ込んでしまうことが悩みや苦しみの原因であるといいます。なぜなら、何かの折に、たとえば、企業がつぶれたとき、愛する相手がいなくなってしまったとき、不慮の事故が起こったとき、病気になったとき、肉体が滅びるとき、どのような際でも、レッテルやマスクがあるからこそ、悩み苦しみを生む大きな原因となってしまう。なぜなら、真我というものは、苦しみも悩みも死にもしない。


悩み、苦しむのは、太極が存在する地球に人として生まれてくる者の使命です。
しかし、人は、生まれたときから、なんとかして楽しいものや幸せなものを周りに集めて(生まれた子どもには与え)、まるで悩み、苦しみがないように生きることが現代社会の通念となっています。ただ、ここで忘れてはいけないのは、肉体を持って生まれた人間というのは、どんなに見た目が美しかろうが、食べれば便が出るような体の仕組みになっている肉体の真実です。どんなに美しいアイドルでも、年を重ねれば歯茎が弱くなったり、目や耳が聞こえにくくなっていくのは、避けられません。生きるうえでの根源的な苦しみは、仏教で「生老病死」と呼ばれているものです。

私たち人間の肉体は、生まれた瞬間から日々変化しています。
それは時期によっては成長、時期によっては老衰と呼ばれるものです。毎日という一日は、異なる一瞬の積み重ねた後にできあがる時間単位でしかなく、一週間、ひと月、上半期、年度、干支ひとまわりなどの時間単位は、今の瞬間を振り返ったときにある直線的な指標でしかありません。すなわち、実体がなく、短期的な思考のなかにしか存在していません。

同じ瞬間、同じ日というのは二度とないのです。
しかし、現代の忙しい暮らしの中では、まるで同じことがテープを巻き返して再生する繰り返しのように移り、人々もそれを当たり前のように繰り返しています。

「今」という一瞬の大切さ、奇跡さ、それが持つ可能性の大きさを、気づかないどころか、まったく存在しないかのようになってしまいました。「今」と呼ばれるものは、常に異なる「人生に一度しかない今」という一瞬一瞬で、それぞれの瞬間は、常に移り変わっていきます。そのことを、ただ忘れてしまっている。
忘れているということは、思い出すことが可能である、というサインでもあります。

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内にある深い悲しみ、忘れることのない嘆き、どうしようもない怒り。卑屈さや、頑固さや、潔癖な性格。地位やお金や保険や子どもにすがりたいというような思い。これらは、地球におりてきたら、ちゃんと経験するようにプログラムされていたのですが、これを一切手放すことが可能であるといえばどうでしょう?

しかし、今の状態じゃどうしようもない、でも今の状態に答えはない、と、そういう時。家も車も地位もお金も一切も置いて、山寺へ入って毎日を過ごしていくという選択が現代社会にもあるのです。どんな人でも、出家するという決断は、相当の覚悟がなくてはできないものでしょう。


修行に入ってからすぐの頭や心の中は、傷や、心の痛みや、葛藤でいっぱいなのは当然です。修行は、これらがすべて噴出してくるのを、見つめるかなり激しい作業を(できるだけ)静かに学び、そこに住む(タイの場合は)阿羅漢という悟りを開いたお坊さんに支えられ、すべてを超えていく経験です。

ヴィッパーサナは、これらの性格や感情やこだわりや葛藤などを、ただひたすら観察し続ける作業です。逃げません。逃げ場もありません。この厳しい作業を少しでも楽にしてくれるために存在するルール的なものがあり、これは戒律と呼ばれます。修行におけるフレームワークのようなもので、戒律に従うことで修行への道が歩みやすくなったりするような道しるべのようなものでもあります。


私の瞑想修行は、この藤川和尚とはじまりました。
藤川和尚が他界された後、インド出身のヒーラーに教えていただいた和道瞑想を基本に、瞑想の実践を深めていったのですが、はじめた時点から十年かかって養ったジャーナ(三昧)すなわち心の平安(絶対的な静けさに吸収されること)と、ヴィッパーサナは、上座部仏教瞑想の二大柱といわれています


※ちなみに、私が行った和道瞑想の、クリーニング(浄化)瞑想は、過去記事のこちらからご覧いただけます。
(10年前の記事です、稚拙な文章はご容赦ください[バッド(下向き矢印)]


上座部仏教で大切とされる「止観の瞑想」の「止」の部分は、一極集中して精神統一をする方法(サマタ、慈悲の瞑想)で鍛えることができます。

そして、「観」こそがヴィッパーサナです。上座部の伝統的には、「観」の瞑想は、「止」の瞑想を10年修練したあとにはじまると言われています。

現代の修行のあり方のある部分は時代の変遷とともに変わってきてはいるようですが、お釈迦様が残したことを少しも変えたり曲げることなく2500年経った今も実践で継承するテーラワーダ仏教は上座部仏教、長老派とも呼ばれており、特に森林派の比丘・比丘尼たちは、この教えを今も追随しています。特にタイ東北部、ラオスとの国境の南側の森は、阿羅漢(悟りを開いたお坊さん)のメッカとよばれており、多くの寺院が国王の援助を得て建立されており、バンコクなどの都市部のお坊さんも修行を深めにやってくることで知られています。

また、仏教国の中でも、タイ王国はダンマ(真理)の地、ラオスは修行の地、スリランカは学問の地と呼ばれています。





さぁ、まだお付き合いいただいていますでしょうか?(笑)



二年前に書き始めたこの記事で、ついに私の出家修行についてお話する準備ができたような気がします[かわいい]


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参考)
そんなテンヤワンヤな藤川チンナワンソ和尚のお話、詳しくは、こちらの本をぜひどうぞ[カチンコ]
『タイでオモロイ坊主になってもうた (日本語) 』
藤川チンナワンソ 清弘著

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タイでの出家のはなし(1):ソウルメイトの超婚、の巻 [タイでの出家のはなし(上座部仏教 雨安居修行)]

2018年8月。タイは北東部、メコン川の向こうにラオスが見える。
『マットミー』とは、タイ伝統的な技法の染物で、主に女性の衣として使われる泥で染められたタイシルクのこと。この名がつけられた『マットミー』と呼ばれる小さなバックパッカーから、雄大なメコンの流れに沈む夕日を眺めていた。


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《タイ側から、メコン川の向こうラオス側に沈む夕日》


ノンカーイに着いたのは、それから2ヶ月さかのぼる。
6月初旬、オーストラリアのゴールドコースト、クーランガッタ空港を出発し、タイのバンコクへ到着。十数年ぶりのバンコクは、あの時と同じ匂いがした。タイ独特の、高温と湿気と甘くてねとっとしたあの匂い。東京に住んでいたころは買い物によく来た。姉と南部の島リゾートをしたり、友だちとクルーズをしたり。今となっては、買い物もリゾートもしたいとさえ思わない。あの頃の私はもういない。

バンコクの空港から外に出たるのは夜中だったので、タクシーをつかって宿へ向かった。空港が巨大化し、以前に使っていた空港でないことは、タクシーがハイウェイにあがってすぐに気づいた。エネルギーが増した巨大都市。高層ビルが乱立していて、高級車が前にもまして増えていた。車窓からのネオンを見ながら、ふと、そういえば夫と出会ってから海外一人旅をしていなかったことに気づいた。

一人旅をしていなかった事実だけではない。財布も共通、二人ですることといったらガーデニングやコモンランド(共有地)のメンテナンス。ほんとうに多くの時間をともに過ごしていたことに気づいた。社会的に機能する便利な関係という面はほぼなく、お互いの魂に目の前に迫り来るような関係だった。よくも、わるくもを、通り越して…。


想像したとおりに、バンコクの夜は相変わらずまぶしく賑やかで蒸し暑く、持参した耳栓は紛失し、眠れない夜を明かした。翌朝は、夜行列車出発まで暇つぶし。自分のお財布というものを数年ぶりに抱きしめながら(コミュニティではウブントゥ(物々交換)な暮らし)、ドア鍵をかけたり(コミュニティでは鍵をかけない)、水を買ったり(コミュニティでは雨水)と、ひさしぶりに都会で一人で過ごすことの勝手の違いから、少し慎重に動いていた。

喧騒から一刻も早く脱出したい思いだけで、お昼には駅に到着し、目指したのはタイマッサージ。
夜の電車出発時刻までランダムな旅人と会話を楽しんだあとは、タイ北東部のノンカーイまで、14時間の旅。


  *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*   


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《キャンパーバンから望む、タイアルガムのワランビン山》



タイに来るまでの数年間、夫と私はトヨタのキャンパーバンをベースにし、オーストラリアの東海岸のコミュニティを転々としながら暮らしていた。「ノンカーイにいくのだ」と、心の声が降りてきたのは、ワランビン火山の火山層上にできたタイアルガムという小さな町だったと思う。ノンカーイという町名も知らなければ、タイ最北のラオス国境沿いの小さな港町ということももちろん知らない。ただ、ノンカーイという場所へいかなくてはならないことが、全身全霊でわかった。


私のキャンパーバンの旅の理由は、体と心と精神のヒーリングだった。彼のキャンパーバンの理由は後づけで(私がキャンパーバンを買ってしまったので)、理想のコミュニティを見つけて移住したいというものがあった。私にとっては、ヒーリングが深まっていく上でコミュニティの一員として生きることは不可欠となったのだが、異なるコミュニティを見れば見るほど私にとって「コミュニティの理想形」というものはなくなっていった。逆に、個人意識のなかにコミュニオン(自我と高次のセルフとの融合)がなくてはコミュニティというものの存在はありえない、という理解につながり、コミュニティを訪ねることへの興味と意義をすっかり無くしてしまった。コミュニティを学ぶ時間とエネルギーがあれば、より意識の内側に入って、人間というもの自体を理解したいという確かな願望に落ち着いていった。




これが、二人ともがわかりやすい形で、分かれ道をみせてくれることになった。




彼も、私たちの魂の契約が、完結に向かっていることを察知していた。悲しむことなどなく、悔いることはない。ただ、私たちが結婚という形式からオーバーフローしていた。鉢植えの植物が大きくなりすぎて、土壌に植え替えてあげないと、というような感覚。結婚という枠内で存在する意味があまりなく、社会的にも夫婦である必要がないというような関係。だから私たちは、私たちが支えあうことのできる永遠の関係であれるかたちで、婚姻契約から卒業していくことを、感じ取っていた。




いまやそれをこうして言葉にできるが、その時はまだ心の霧の中にいた。


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《タイ出発当日の朝》


出発当日の朝、これがオーストラリアで見る最後の朝日なのだろうか、と少し感傷的になってじっと眺めていた。
今後タイに移住するのかもしれない。タイから日本に帰国するのかもしれない。東京を離れて以来、大いなるものに導かれてきた。心の声をしっかりと聞いて、ここまでやってきた。だから、心の声にしたがっていけば「大丈夫だ」という自信だけはある。思考が、人生がここからどこに行くのか、どうやって暮らしていくのか、とループしていることを観察しながら、人生の次の停車駅がタイのノンカーイであることを確かに受け取り、私の意識はそこに向かっていた。。。それから半年もの間、そこに住むことになるとはつゆ知らず…



彼が私を空港まで送ってくれた。
これまで、すべてを出して話し合ってきたが、空港に向かう車で私たちは無口だった。2011年に出会い、翌年に結婚。翌々年に南オーストラリア州のエコビレッジに移住。その2年後にキャンパーバンを買い、東海岸へとオフグリッド旅に出発した。私たちは二人で、何かを築きたかった。そしてその何かを築くために、やらなければならないことがたくさんあった。知らなくてはならなかった私たち存在意義を解き明かしていく作業が、私たち7年間の結婚生活だった。



無限の真実を解き明かしていく契約を、生まれる前に結び、約束したとおりに出会った私たち、ソウルメイト。二人が出会ってから、大量生産消費型の「東京クラス」(地球学校の過去記事へどうぞ)を卒業し、すべてにおいて壁と嘘が存在できないコミュニティに引っ越した。私たちが入学したクラスは、「コミュニティクラス」だった。コミュニティに移り住んだことで、あらゆるすべての壁という壁が崩壊し、目の前の世界がどんどんと透明になり、思考と心から壁、嘘、言い訳が消失していくにつれ、真実が確実に姿をあらわしてきた。


真実が見えてくるなかで、私たちは幻想としての信じてきた結婚というものを演じようとして、多くの場合に苦しんでいたことにも気づいた。両親を見て、祖父母を見て、社会を見て、世界を見て、結婚とはこうあるべきだと信じてきた概念のなかで、よいといわれるような夫と妻を演じようとしていたことに。私たちは、私たちの結婚生活により、私たち自身を自由にした。


闇のなかを光のスピードでかけぬけてきた二つの魂。闇があったからこそ生まれた光で、いま、心の中にある魂の叡智を照らすことができる。概念と経験と信念体系を超え、今私たちは、私たちを、私たちがつくった愛のなかに、解放する。結婚でも、卒婚でも、離婚でもない、超婚*がここにある。




自分を、隣人を、他人を、敵を
ただ赦すこと
在りのままで
受け入れること

期待を落とすこと
落胆を落とすこと
すなわち幻想を手放すこと

瞬間的な苦しみと喜びの波のあいだに
不動の静寂の一点をみつけること
そこに漂うこと

慈愛と優しさを
心の素質にすること
やわらかな強さで
個の愛を無償の愛へと高めていくこと

永遠にひろがる愛のなかに
自分も、隣人も、他人も、敵も
別々で存在しないことに気づく

私たちの存在の本質は
愛だから

有り難い 今という
瞬間瞬間の奇跡にきづくと
妬み、怒り、悲しみ、哀れみ、傲慢さが
どんどんと消えていく

そして光としての愛が
永遠にあふれだしていく



 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*



クーランガッタ空港の出国ゲートに近づく。エスカレーターに乗れば、私たちの結婚生活に一旦ピリオドがつく。それがわかって、二人とも無言だった。ソウルメイトが歩んだ道が、契約どおりに今このエスカレーターで分岐点となる。




『ありがとう。』

『じゃ、また。』




 *****



2018年8月。『マットミー』のデッキから、メコン川に沈む雄大な夕日を眺めつつ、出会いから2人が積み重ねてきた神聖な時空に思いを馳せる。短いようで、深く濃い時間。彼と私だからこそ成し遂げられたソウルメイトの魂の契約を結んだあの日、魂として誓った言葉はずっとこれからもほんものだった。








次の巻、【タイでの出家のはなし(2):修行するって、どういうこと?ヴィッパーサナって、なに? 】へと続く…




日本には、2000年ころから『卒婚』という言葉があるようですが、その定義は、ソウルメイトの婚姻からの解放(リリースまたはリバレーション)とは異なる意義を持つようです。ソウルメイトの婚姻は生前に決められた魂の契約であるため、ある意味、契約が完了し、契約から解放することになります。そこで、ソウルメイトの婚姻による契約の完了を、ここでは勝手に『超婚』と呼ばせていただきます。日本語でこの言葉に値するものがあれば、どうぞお知らせください[かわいい]






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